あなたは、死にたいと思うことはありませんか?
私は何となく死にたいことはよくあります。
調べてみると、「希死念慮」に当てはまるみたいです。
きし‐ねんりょ【希死念慮】 の解説
死にたいと願うこと。[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。
goo辞書より引用
私の場合は自殺願望ではないので、計画したこともないのですが、強い自殺願望を持つ人の中には、何度も自殺を計画したり、自殺未遂をしたりした人もいます。
こういう話になると、だいたい「自殺は悪だ」とか、「自殺は罪だ」みたいなことを言う人がいますが、あなたはどう思いますか?
私は自殺は悪でも罪でもないと思います。
「家族や友人など、周りの人が悲しんだり、迷惑をかけるから自殺は悪だ」というのが、主な理由の一つだと思いますが、
「本当に自殺を悲しむ人は自殺する前にその人の変化に気づかないのか?」と私は思ってしまいます。
私のように、他人といる時は元気にしてるけど、一人でいる時には病んでるようなタイプの人は、周りから気づかれにくいかもしれませんが、
本当に自殺を計画するような人は、リストカットしていたり、急に食欲がなくなったり、全てのことに対して無気力になったり、明らかに普段と異なる怪しい行動の1つや2つはあるのではないでしょうか?
少なくとも、同居人(家族など)は気づくと思います。
そして、自殺した人のことをあまり大切に思っていなければ、恐らく見て見ぬふりをします。
「自殺して初めてその人の大切さに気付いた」と言っている人は、自業自得だと思います。自分が生前に自殺した人を大切にしていたら、実行する前に止められたかもしれません。
また、「命は尊いものだから自殺は悪だ」という人もいます。
そういう人の多くは、「発展途上国では生きたくても生きられない人もいる。」とか、「戦争で命を落とした人に申し訳が立たない」などと言いますが、それと何の関係があるのでしょうか。
これらの意見を抽象化すると、「したくてもできない人がいる。でも、お前はできるんだからやれ」ということです。
これだけ聞くと、多くの人は疑問を持つと思います。
例えば、親から「塾に行きたくてもいけない人がいる。でも、お前はお金も時間もあって、塾に行けるのだから行け」とか、
寄付を募る人から、「寄付したくても貧しくてできない人もいる。でも、お前は十分生活できるだけのお金を持っているんだから寄付しろ」
みたいなことを言われたら、多くの人は「論理が飛躍し過ぎてる」と思うのではないでしょうか?
「塾に行く」とか、「寄付をする」とかは個人の自由であるはずです。
だから、強制するのはおかしいと思うのです。
では、「生きること」は個人の自由でしょうか?これは、尊厳死や安楽死の問題とも関わってきます。
しかし、考えてみて下さい。
「あなたは、自ら望んでこの世に生を受けましたか?」
恐らく答えはNoだと思います。それなのに、「生きる自由」と「死ぬ自由」は与えられないのでしょうか?
現代は、昔と比べて、個人の自由や権利が尊重されるようになりました。
しかし、「生きる自由」と「死ぬ自由」はないのでしょうか?
あなたも、一度考えてみて下さい。
「生きることが絶対に正しいのか?」
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